☆デリオ・ロッシ監督
「我々は自由と落ち着きを見つけるためにプレイしなければならない。計算をし、考えながら試合をこなせるほどの精神的な余裕は我々にはないし、そのようなことをしているとミスが起きてしまう。ナポリとラツィオのプロジェクト?両チームとも経済的な困難を抱えたあと、将来へ向けて若手を狙うというプロジェクトを敷いている。ナポリにはマッジョ、ハムシク、ラヴェッシといった大きな価値を持った選手たちがいるし、彼らに勝つことは簡単ではない。ハムシクはランパードに似た現代的なMFだよ。マッジョについては個人的にすごく気に入っている。ただ、私はラツィオが美しいパフォーマンスを見せることに期待しているよ」(Messaggero)




・サラテの2つのボール
サラテ・ファミリーの5人の息子は全員がカルチョをプレイした。
一番早く産まれたNestorはヴェレスで冒険をスタートしたが、下部組織で昇格できずにキャリアを終えてしまった。その次の“el Raton”セルヒオはアンコーナでは失敗を犯したものの、アルゼンチン、ドイツでキャリアを積んだ。そしてその後は“el Chino”アリエル、“el Roly”ロランドという才能が生まれた。アリエルはレアル・マドリードに在籍し、マラガでもプレイした。その一方でロランドは世界中を渡り歩いている。ヴェレス、レアル・マドリード、サウジアラビア、メキシコ。
しかし、将来はマウリートのものだ。頑丈な身体、脅威的なスピードを支える腿を持ったマウロはわずか1年でヴェレスのレギュラーへと成長し、すぐに得点王に輝き「Fortineros」のアイドルとなった。ファンは完全に彼に魅了されていた。しかしクラブが経済危機に陥ったとき、拒否することのできないオファーが到着した。アル・サッドはマウロに2000万ドルを支払う準備ができていたのだ。そしてマウロは約束された若手ではなく、おもちゃのようなリーグでプレイしながらお金持ちになる運命となった。しかし、それでも金の輝きは消えなかった。アルゼンチン代表のユニフォームでの最初の成功。2006年、カナダで行われたU-20W杯で優勝を果たしたのだ。
その後、古い栄光を思い浮かべながら金の檻に閉じ込められていたマウリートは、欧州でプレイすることを決意した。移籍先はバーミンガムで、6ヶ月間のレンタル移籍というものだった。イギリスでの経験は彼により多くの満足感を与えた。この欧州での初の6ヶ月間は自らの将来を考えるために重要なものとなった。
このようにしてマウロの道はラツィオ(アルゼンチン人選手との強い伝統のあるクラブ)へ繋がった。ロティート会長は300万ユーロのレンタル料に2年間で1500万ユーロを支払って完全に買い取るオプションを付けるという条件でマウロを獲得したのだ。イタリアで失敗の経験を送ったセルヒオと共にマウリートは厚かましくイタリアに上陸した。栗色の髪の毛、タトゥー、ピアス。その姿を見たラツィオの会長は長髪を剃るよう命じた。真剣にプレイすることを望んでいたマウロにとってこれは許容できる妥協であった。
ラツィオでのスタートは難しいものだった。トレーニング中、ロッシ監督は「我々は2つのボールをプレイしなきゃいけない。個人のものと、チームのものだ」と何度も繰り返し口にしていた。
カリアリとの開幕戦、サラテは2ゴールを決め、ロッシ監督を驚かせた。そしてマウロはすぐにオリンピコを征服し、ティフォージはキナーリア、ジョルダーノ、カシラギ、クレスポ、シニョーリといったビアンコチェレスティの伝統の中で最高のFWの後を継げる選手を見つけた。
しかし、ここに来て困難が訪れようとしている。ロッキの復帰によりサラテは準主役に下げられることを強制されるのだ。ロッシ監督にとって彼ら2人が連携を取れる戦術を見つけることは非常に困難となっている。
兄のセルヒオ・サラテは週末からローマを訪れており、ロティート会長と会談を行う予定になっている。ラツィオ側は宝石の買い取り計画を開始しなければならない。ロティート会長は数日前に他クラブが手を出す前に遅れないよう動き、来年もマウロにラツィオのユニフォームを着せることを明言している。(Messaggero)