・イタリア代表:レデスマを招集、マウリ si、フロッカーリ no(La Lazio siamo noi.it)
プランデッリ監督はイタリア代表のメンバーとしてラツィオからレデスマとマウリを招集した。「代表招集が実現して、ものすごい喜びを感じている - レデスマはクラブの公式サイトでコメントした - 家族、チームメイト、チーム、全スタッフ、ビアンコチェレステティフォージ、そしてすべてのラツィオモンドに挨拶したい」。



☆クリスティアン・レデスマ
「自分のことを外国人だとは思っていない。僕は自分がイタリア人だと思っているよ。だからこそ、アズーリに招集されたことが本当に幸せなんだ。 僕はサレントで妻と知り合って、2人の子供を授かった。そして、あの地でジョカトーレとして、人間として成長した。 反発?反発があるとしても、それに応えることはできないよ。人には、何を求めているのかを言う資格があるからね。 2006年はイタリア代表のW杯優勝を家族と一緒に祝っていたよ。自分がイタリア人だと感じていたから。 Mameliは知っているよ。歌う準備はできている」(Agi/Italpress)



☆レデスマの代理人
「アズーリ招集?クリスティアンと話をしたが、非常に満足していたよ。これまでの月日の犠牲が、代表招集に繋がったのだろう。 どうしてイタリアか?マラドーナがクリスティアンを追っていた頃から、リッピからもいくつかの合図があった。クリスティアンは自分のことをイタリア人だと感じている。彼にはイタリア人の妻とイタリア人の子供がいるからね」(Tuttomercatoweb.com) 



☆アベーテ会長(FIGC)
「レデスマのアズーリ入り?プランデッリには完全な選択権がある」(Ansa)



・レデスマ物語(Repubblica.it)
パタゴニアからイタリアへ。長く激しいトゲだらけの道のり、しかし幸せな結末。クリスティアン・レデスマ、9月24日に28歳を迎えた男は、もう一つの夢をかなえた。
-難しい幼少時代:クリスティアンは裕福ではない家族の下で生まれた。「僕はブエノスアイレスで生まれた - クリスティアンが自身のブログに綴った - それから、幸運を探しに家族と一緒にパタゴニアに移ったんだ。 Puerto Madrynのワンルームマンションで8人の兄弟と一緒に暮らしていたよ。呼吸も止まるようなパタゴニアの風と寒さは、僕の性格を形成した。僕は無口で、一人でいるようなタイプの人間なんだ」。ボールは、常に親友だった。「最初の記憶は今も残っている。ボールは“永遠”だったね」。
-ボカ・ジュニオルスへの到着:14歳の時点で、クリスティアンは既に一人で決断を下すことのできる男になっていた。彼は10年の時を経て、自らが生まれた街に戻ろうとした。「僕の人生で最初の、本当に難しい選択だった。ボカ・ジュニオルスの経営陣は僕に感銘し、下部組織入団に向けて父からの許可も得ていたんだ。父は決定を僕に委ねた。そして、僕はこの電車を逃すことはできないと思ってすぐにSiと返答したよ。もちろん、パタゴニアから離れること、特別な家族と離れることは辛かった。ボカでの4年間は簡単じゃなかったね。トップチームでデビューするチャンスは決してなかったんだ。でも、幸いにも世界中を周ることができて、スイスのベッリンツォーナで行われたプリマヴェーラのトーナメントでレッチェのコルヴィーノDSと出会って、長い交渉の末にイタリアに移籍することになった。ボカがすべてを賭けて僕を守ろうとしたから、簡単じゃなかったよ」。
-イタリア到着、マルタとの結婚:イタリアのカンピオナートではすぐに愛を見出した。レッチェへの順応には何の問題もなかったのだ。「19歳でプリマヴェーラのカピターノになって、スクデットとトロフィーを獲得した。そして、トップチームにもしばしば招集されていた。監督は誰だったか?もちろんデリオ・ロッシ、僕の人生のマエストロさ。彼はどんな選手にも可能性を与えてくれていた」。マルタと出会ったのもこの頃だった。「21歳のときに出会って、最高の女性だと感じたんだ。マルタとはすぐに同棲して、2年後には結婚したよ。それから、今はもう6歳となるAliceが生まれた。アリチェとマルタは僕の人生における2つの太陽の光だった。この二人より重要なモノなんて存在しない」。現在、家族は3歳となるダニエルも加わった。「ラツィオに到着したあとの最初のデルビーでゴールを決めたときに生まれるのを待っていたね。あのゴールはビアンコチェレステのユニフォームでの最も美しい思い出の1つだ」。
-ラツィオ入り:2006年、ラツィオでの初年度を過ごした。「レッチェでグレグッチやゼーマンと一緒にやっていたときに、ビアンコチェレステのことは聞いていた。ラツィオでは多くのアルゼンチン人がプレイしていたから、もともと好意を持っていたよ。アルゼンチン代表と同じカラーで、アルゼンチンとの歴史も持ったクラブだったしね。これ以上のモノを求めることなんてできなかったよ。ただ、ローマに到着して偉大なマエストロであるデリオ・ロッシと再会したんだけれど、簡単じゃない順応の時間があったね」。それから、最初の稲妻となる、忘れられないデルビーでのゴール。「12月10日だった。閃きの一発だったね。僕にはラツィオで自分の力を示す可能性があった。そこから逃げるつもりはなかったよ。僕はこれまで何も宣言しないで、静かに成長してきた。これが僕の性格だ」。このシーズン、レデスマは33試合2得点という数字を残し、チームはCL出場権を手に入れた。「子供の頃からの夢だった。あのテーマソングを聞いたときは震えたね。これまでにカルチョを通して経験した感情の中で、最も美しいものの1つだった。あの経験を長い間続けることができなかったのは残念だよ」。ラツィオでの2年目は33試合3得点で終わり、3年目は決定的な貢献を与えた。「自分がベテランだと感じるようになって、チームメイトからは副カピターノにも選ばれた。特異なシーズンだったけれど、幸いにもコッパ・イタリアを持ち上げることができた。サンプドリア相手にPKで勝利したんだ」。
-ロティートとの衝突:それから2ヵ月後の7月、契約更新交渉の破談が、予想外の苦しみの始まりとなった。レデスマのキャリアで最も大きな傷となる時期。「シーズンは衝撃的な形でスタートした。僕はインテルとのスーペル・コッパの中国行きメンバーから除外されたんだ。ラツィオのプロジェクトに関する意見が反映されなかったこと、クラブの考え方との相違が、ラツィオから出て行く用意を行った理由だった。あの時は失望したよ。ただ、すごく苦悩したけれど、そんな状況でも僕は心の選択としてラツィオとの契約更新にサインする準備もできていた。最終的には、ラツィオに貢献を与えるためにチームに復帰することになっていた」。しかし、バッラルディーニは彼を戻さなかった。「バッラルディーニは、最初は僕をラツィオの軸だと考えていたけれど、中国から帰国してからは何も話さなくなった」。それから、仲裁裁判所へ訴えたが、契約解除を勝ち得たパンデフとは異なり、レデスマは敗訴した。転機はバッラルディーニ解任によって訪れた。バッラルディーニがクラブから去った2月、クリスティアンはようやくピッチに戻ってきたのだ。「レヤには心から感謝している。彼のお陰でピッチに戻ってユニフォームを着てプレイできるようになったからね。すべてのチームメイトと共に、グループとして団結して、まずい海から脱出するという偉業に成功したんだ」。
-平和の訪れ:シーズン終了後、レデスマはクラブに向けてメッセージを送った。「ラツィオは僕の家だ。僕の家族も、僕自身も、このカラーと人生が結ばれているように思っているし、別の将来のことを真剣に考えるつもりはない」。その後3ヶ月間は何の音沙汰もないまま時間が過ぎたため、今度はレヤ監督が声を発した。「レデスマは残留するのであれば契約を更新する。そうでないのならば移籍する」。このような流れで、ロティート会長とレデスマは8月23日に契約更新の合意を見つけた。レデスマは、自らが生まれ変わったかのように感じていた。「信じられないけれど、夢は現実になった」と、ブログ上に思いを記した。「イタリア代表でプレイすることは夢だ。僕の家族にとっての喜びでもあるからね。僕はアズーリにSiと言うよ。ここで生まれた子供たちアリチェ、ダニエルのことを考えているんだ」。9月、レデスマはイタリア代表への思いをこのように明かしていた。
-イタリア代表到着:この発言から2ヵ月後。マラドーナ(「僕のアイドルだった。だからこそ、僕はボカを選んだんだ」)は彼を無視し、新監督のバチスタからの電話も掛かってこなかった。一方で、長い間レデスマに注目を寄せていたプランデッリ監督が、ついにレデスマをイタリア代表に招集した。この一つのストーリーを見ればわかるように、この世にはすべての可能性が存在している。




・パルマ戦に向けて(La Lazio siamo noi.it)
-ブロッキ:背中を痛めたため、試合翌日に検査を受けることになった。パルマ戦に間に合わない場合には、レヤはレデスマ-マトゥザレムのコンビを起用する見通し。
-マウリ:チェゼーナ戦を太腿の問題で欠場していたため、ナポリ戦では予防という理由で途中交代。